Sweet Revenge

 毎日死にたいと思いながら日々を暮らしていくことはとんでもなく不毛なことではわかっていても、それから逃れる術を俺はもっていなかった。努力・友情・勝利という三原則は漫画の中でだけ適用されると思っていたがそうではなく、実際の仕事にも適用されている。そう気づいたときには怠慢・孤立・敗北という沼にどっぷりと浸かり、手足をばたつかせて息も絶え絶えにつぶやき程度の声をあげて時間が過ぎるのを待つだけの生活をしていたのだった。傍から見たら、悪くない生活なのかもしれない。週末はよほどのことが無い限り休み、それなりの残業代を含む給料をもらい、有休を取得するだけの余裕がある。しかし俺は怠慢・孤立・敗北の沼から動けない。怠慢・孤立・敗北の沼は俺が作り出した幻影なのかもしれないが俺はその幻影から逃れる術を知らない。つまり金や時間は怠慢・孤立・敗北の沼から逃れる助けにはならないということだった。

 だから俺はアイドルにその助けを求めた。俺がアイドルを好きになってもう何年になるだろうか。好きになったときは別に沼に浸かっているという感覚はなかった。せいぜい演者と客の間の疑似のコミュニケーションの楽しさに溺れているという幸福で愚かな感覚しか持っておらず、当然ながら助けを求める必要もなかったし、助けをもらったところで幻影相手には役に立たないこともわかっていた。

 それなのに、俺はアイドルに助けを求めようと思い、空しい仕事が終わった後に秋葉原に足を向けた。日々の暮らしがそれほどに辛いのなら逃げるなり抵抗するなりすれば良いのだろう。しかし逃げても抵抗しても結局は現実に立ち返るのであれば、幸福な感覚を覚えて現実を忘れることに行きつくしかなかった。後ろ向きにしか物事を考えられなくなった人間は、前を向いて生活する人間を見て何かを思うしかなかった。

 俺がバックステージpassでピンクのドンペリを注文した時、店のキャストは、え、という表情をしていた。くたびれた背広姿の男が80000円の酒を注文するとは思わなかったのだろうが、すぐに忠実な飲食店の店員としての表情に戻り、オーダーを受けた後ドンペリを運ばんとしてドリンカーへと向かった。

 このブログに行き着いた人間ならバックステージpassのことは知っているだろうが、"お客様には弊社のプロデューサーとなって、お気に入りのキャストを応援・育成・プロデュース(推し≒投票)して頂きたいのです!"という公式サイトからの引用をもってこの店の説明としたい。つまりは前を向いて生活する人間の後押しをしてほしい、ということであった。怠慢・孤立・敗北の沼に浸かった俺が前向きな人間を応援することは滑稽なのかもしれないが、その応援は誰かのためになっているという「幸福な感覚」を味わうのに充分であった。だが、俺は「幸福な感覚」に抵抗したくなった。痛みを覚えない無邪気な声援を送ることに、飽き飽きしていた。金が怠慢・孤立・敗北の沼から逃れる助けにならないとあきらめるのではなく、無理やりにでも助けにさせるのだと抵抗を試みたくなった。

 ほどなくして、バケツの中に満たされた氷水に浸かった姿でピンクのドンペリが運ばれてきた。キャストがコルクを抜き、グラスにドンペリを注いでもらい、飲む。初めて飲むピンクのドンペリは、俺が昔考えていた未来と同じくらい甘い味がした。そしてボトルの残量を確かめる。思ったより量がある。営業時間が残り1時間であることを考えるととても飲み干せる量ではなかったが、幸福な感覚」に抵抗したくなった俺は構わずに手酌でドンペリをグラスに注いで飲んだ。ドンペリはどこまでも甘い味がしたが、現実的に酔いが回り始めた。

 酔った頭の中で、はたしてこれは幸福な感覚」への抵抗になったんだろうかと考えていたが、俺の頭に浮かんだのは「復讐」の2文字だけだった。怠慢・孤立・敗北の沼に浸かり切った俺への罰を自分でくだしたのではないかと考えて、次に俺のお気に入りのキャストのことを考えた。この店ではオーダーの金額に応じてポイントがもらえ、そのポイントをキャストに割り振ることでキャストのランキングを決めるのである。ドンペリのピンクならそれ相応のポイントがもらえる。俺はそのポイントをどうやって割り振ってやろうかと考えていた。自らの罰から目をそらして、飴に目を向けた。後ろ向きなことを忘れることで前を向けるのなら、それもまた幸せかもしれないし、後ろを向いたときはそれなりの罰を受けることを恐れてはいけなかった。死にたいと思っても、どうせ自ら死ぬなんてことは俺には出来ないのだから。