アイドル・フェスティバル・イン・トーキョー

 休みの日に仕事に駆り出されるほど馬鹿らしいことはないのだと俺は思っているし、ましてやそれが仕事ではなくて職場の飲み会に参加するためならば一体俺は何のために生活をしているのか、と哲学的な思考に身を置く気分にもひたりたくもなるのだ。午後1時から始まった夏の甲子園神奈川県大会決勝の試合を俺は観ていた。高校野球はいつからか居酒屋チェーン店のような気配りが求められる物語合戦と化してしまったが、東海大相模のピッチャーが投げる変化球は「エグい」という形容詞が似合うほどの変化をしていたからスポーツとしての興奮をそれだけで得ることが出来たし、何より東海大相模は神奈川県大会決勝に出るほどの高校であるから神奈川のみならず全国から野球の上手さをアイデンティティの拠り所とした連中が集まっていたから、スポーツとしての試合を楽しむことも出来た。だがそれも途中までの話で、東海大相模が向上に大差をつけると途端に興味をなくした。それはその試合がスポーツとしての試合だったからだ。この試合を見世物として観れたなら最後までどちらかに肩入れしれ観れたのだろうが、幸か不幸かどちらにも肩入れできるほどの情熱を持ち合わせていなかったために俺はその試合を流していたテレビを消してベッドに寝転がったのである。


 俺が職場の飲み会に出かけたのはベッドに寝転がってから数時間後の話だった。数日後の週末にはトーキョー・アイドル・フェスティバルが行われ、俺はそこで至福の日々を過ごす予定なのだ。だがこの近日到来の明るい未来に対してこの現実の先の見えなさは何なのだろう。まるで雲をつかむような話だったりくもの糸に絡めとられるようなロジックだったりクモ膜下出血に倒れるような心の痛みにここ最近囲まれたせいで、未来への視野を奪われていたのである。「衣食足りて礼節を知る」と故事にあるが、心に余裕がなかったら礼節も何もなく、生きるのである。サバイバルといってもいいのかもしれない。命の危険もないのに、てめえが勝手に命の危険を感じているというのは滑稽なのかもしれないが、それも他人から見た話だ。お前の苦しさを俺は知らないのと同様に、俺の苦しさをてめえは真に理解していないのである。Twitterだったりmixiだったりで、しょせんSNSでは他人の心の痛みに気づけないことはわかっていた。それでも、みんな、他人の痛みを分かり合おうとするのである。他人が俺の思考を知ろうというのである。俺もまた、他人の思考を知ることを求められているのである。「分かり合う」という言葉が終生理解できそうにない俺にとっては、他人の思考を知る行為そのものがダイヤモンドにつるはしをふるう作業にように思えた。

 俺は職場の飲み会が行われる予定の居酒屋に立ち寄り、またぶらぶらと歩き出した。職場の飲み会が行われる時間を1時間早く間違えていたため、俺はどこかで時間をつぶさなくてならなかった。とりあえず、セブンイレブンに行ってトーキョー・アイドル・フェスティバルのチケットの発券でもするかと考え歩き出した。有給のための時間を有効に使えない自分の間抜けさにかすかな怒りが立ち込め、有給の日に仕事に駆り出されることの矛盾について考えようとした。あれ、矛盾って英語で何て言うんだっけ、comfortableだっけ、バカ、それは「気持ちいい」だろ、でも確かcomだかconだかは頭についてたんだ、えーと、あれだ、consensusだ。それも違うだろ、そもそもconsensusってどういう意味だっけ。意見の一致とかそういう意味だったような気がする。スマホで調べてみよう。だったら矛盾が英語で何ていうのか調べろよアホが。なんて心の中でつぶやきながら発券をしてもらった。店員から手渡されたチケットを見て、今年もか、なんて考えてアーケードで半分隠れた空を見上げた。comfortableもconsensusもcontradictionもたぶんあのアイドルの集まりには含まれているんだろうと思った。


 そしてトーキョー・アイドル・フェスティバルが終わった。いつも通りだった。具体的な不満や満足も抽象的な感情も全て、俺があの夏の日に感じたこととだいたい一緒だった。俺は仕事の切れ目だったがゆえにこの祭りの日に運よく参加することが出来た。来年はどうだろうか。いつか参加できなくなるような事情が出来てしまうかもしれない。フジテレビの屋上、エレベーターを上がってすぐに空を確認することはできない。ただ広い空間にいる。その広い空間でアイドルの曲が遠くに流れているのを聞きながらたたずんでいる、そんな空虚に気分になりながらもう少し夏と付き合うことになる。そんな空虚な思いを、俺は後何回ぐらい味わうことになるんだろうか。蝉の声、祭りの後には空しさだけがふさわしい。