Aについて

 俺がNegiccoの単独ライブについてブログを書くつもりが所属事務所をやめていくアイドルAの関する感傷をブログに書いたのは3月半ばの話であった。俺は純粋にNegiccoの話がしたかっただけなのだが、これまでにNegiccoが歩いた曲がりくねった道を想像しつつブログを書いていたので、Aが芸能活動を止めると言う話を知ってどうしてもAの話題を出さずにはいられなかったのだ。消えていくアイドルに、俺みたいなヲタでも関係者でもなんでもない中途半端な奴に何が出来るかと言えば、ただ言葉を連ねてそこにいた証を刻むしかなかった、といえば格好はいいが簡単に言えばブログでだらだらと感想を書き残すことしか俺はしなかった。消えていくアイドルに出来ることもすることも俺には無いように思えたからだ。

 Aが再び芸能事務所に入ったことを知ったのは、俺がブログを書き上げてから数日後の話だった。もう一度夢を追いかけてくれるんだ、という嬉しさよりもアイドルが夢を諦める瞬間を見なくてすんだ、という安堵があった。正確には一度夢を諦めた瞬間を見てしまった悲しみが、芸能活動を再開したことでノーカウントになったのである。自分が見てきたことの証を刻むのは俺だけではない。ブログやTwitterで自分の思いを刻む人はたくさんいる。Aもそのうちの1人だったのかもしれない。そして俺はその刻み付けられた思いを見てこうしたブログを書いているのだ。

 前置きは終わりにしよう。そしてAが誰であるかを明かしてもいいだろう。『さらば、宝石』の主人公である榎本喜八のようにAが誰であるかを最後の文章まで明かさないような工夫が出来るほど俺の文章は上手では無いし、何より、Aが芸能活動を再開する以上Aが誰であるかを隠す必要もなくなった。Aの名前は、赤羽つぶらという。つぶら氏がアイドルと呼ばれる職業を目指して歩んできた過程は、NGP研修生として活動していた頃にライブで配布していた「つぶら新聞」というA5サイズのプリント用紙に詳細に記されている。アイドルにただ「なる」わけではなくプロとしてのアイドルを目指す女性の信念が、プリント用紙に刻まれているのである。俺がつぶら氏にひかれたのはプリントに刻まれた信念に陶酔したわけではなく、信念や過程を屈託なく語れるその人間性を好ましく思ったからだ。いつしか俺の周りにはつぶら氏を応援する知り合いが増えていた。つぶら氏がブログでNGP研修生から卒業する報告をしたのは、彼女はNGP研修生としてどのような道を歩むのかと期待が膨らみつつある矢先であった。

 秋葉原のバックステージPASSで、俺はカリフラワーのピクルスをつまみにアーリータイムズのソーダ割りを飲み干していた。つぶら氏は、バックステージPASSと呼ばれる飲食店でキャストとして最後のステージに立つ予定であった。俺がバックステージPASSでつぶら氏のステージを観る機会は2回あった。1回目は『メロンのためいき』を歌っていた。2回目はあぁ!の『First Kiss』だった。今にして思えば、バックステージPASSには3回しか行ってないのに2回もつぶら氏単独のステージが観れたのは幸福なことであったのだが、俺はバックステージPASSとして最後のつぶら氏のステージを観ることは幸福とは違うものであった。その感情は何だろうか、と思い返す時に、つぶら氏が『メロンのためいき』を歌っていたときにそのステージを真剣に見つめていた1人のキャストの姿が思い浮かんだ。「つんつべフェス」というイベントで『メロンのためいき』をつぶら氏と一緒に歌っていたミズキングこと山下瑞稀の姿だった。ミズキングもまたNGP研修生を卒業して別の事務所にてアイドルを目指す身であるのだが、俺の感情はつぶら氏が歌う『メロンのためいき』を聴いているときのミズキングの感情と似たものがあるかもしれない、と思っていた。
 いろんなセンチメンタルを、俺はアーリータイムズのソーダ割りで流し込んだ。俺は別にウイスキーのソーダ割りが好きなわけではなく、バックステージPASSで安く酔えそうなアルコールがウイスキーのソーダ割りであったからに過ぎない。そして、歓送迎会という名目で、キャストの卒業イベントが行われた。キャストは客に感謝の言葉を述べて、歌を1曲歌い、客の中から希望者を募り花とメッセージを送るというのが歓送迎会の流れであり、つぶら氏もその流れ通りに客の感謝の言葉を述べて、歌を歌った。曲はメロン記念日の『赤いフリージア』だった。

純潔の Ah 赤いフリージア
幻ならばそれでいい


信じることにするわ
二人の運命


いつまでも Ah 赤いフリージア
プレゼントすると誓ってよ


もうすぐ一年になるわ
二人出会って
もうすぐ一年になるわ
あなた愛して…


信じることにするわ
赤いフリージア

 『赤いフリージア』はこんなにさまざまなことを客に示唆させる歌だっただろうか、と俺は思っていた。俺がつぶら氏を初めて見たのは確かに約1年前のことだったように思えた。震災があって1,2ヶ月あったころにNGP研修生のライブが行われたのだから、約1年前と言っていいだろう。純潔、フリージア花言葉は純潔という意味なんですよ、とメロン記念日のメンバーであった柴田あゆみが言っていたような気がする。さまざまなアイドルを観に行ってはあーだこーだと毒にも薬にもならないようなことを適当にTwitterに書き散らかしている俺には、「純潔」という言葉はかすかに胸が響く言葉だった。別にアイドルに恋愛感情を抱いた経験はなかったのだが、なぜかこのときは「純潔」という言葉が胸に響いた。

 今になって思えば、つぶら氏はアイドルという職業に純潔を捧げたから『赤いフリージア』の歌詞が響いたのではないか。所属事務所が変わったことで、NGP研修生時代のように歌や踊りができるような環境になるとは限らないのだ。万感の思いを込めて歌っても不思議ではないのだった。つぶら氏は俺にたくさんのプレゼントを残したが、俺は何もせず席に座ってアルコールを摂取しているだけだった。客がメッセージとともに花をつぶら氏に渡していた。素直な言葉を、俺はしゃべることが出来なかったからアルコールを摂取していた。そうして後でいろいろと思い返しながらブログを書いていた。ただ言葉を連ねてそこにいた証を刻むしかなかった。つぶら氏が『赤いフリージア』を通して伝えたかった100万分の1にも満たない感情を、俺はブログを通して伝えようとしていた。しかし、そんな行為よりも、つぶら氏がステージを降りて客と言葉を交わしていたときに、俺もありがとうという言葉の重みを引き伸ばしつつ一言二言つぶら氏に言葉をかけたことのほうがよっぽど感情が伝わっていたような気がしてならないのだ。

 思いを伝えると言うことは何だろうか、と俺は今こうしてブログを書きながらもぼんやりと考えている。人間と人間は分かり合えないものだからこそ分かり合おうとすることこそが尊いのだと思っている。ならば、思いを寸分の狂いもなく伝えたいときにはどうしたら良いのか。発掘した化石から古代の歴史を想像して組み立てるように、刻みつけた言葉から人を理解してあげるのだろうか。アイドルを好きになってからそういうことを考える機会が増えたし、自分の思いを人に届けようとするアイドルを見て考えることも多くなった。つぶら氏が伝えたいことは何だろうか、と俺は考える。つぶら氏が俺や俺以外の人間に何かを伝える機会がこれからもあることに感謝しながら、考えている。