OK! I'm ready to be suga-yui-sick!!!!

 俺がはてなダイアリーを開始して1日で飽きてから今までにいろいろなことがあった。地震が起きた。津波が起きた。原子力発電所が爆発した。放射性物質が飛散したりしなかったりした。電力会社が袋叩きにあった。しかしこの俺の日常は全く変わらなかった。平日は会社に出かけて休日はアイドルのイベントに通うという日常。日常の隙間に非日常を見出そうとする日常。10年後も20年後も50年後も永遠に変わらないかもしれない日常。生きている限り日常からは逃れられそうにない、と観念したくなるくらいとにもかくにも日常が常に俺の前に後ろに左に右にべったりとくっついては離れなかった。
 だけどそれは俺に限ったことじゃないんだ、とももいろクローバー早見あかりが脱退する日に考えていた。早見あかりは「自分はアイドルに向いていないからアイドルを辞める」らしかった。彼女の本心はさまざまな人たちの解釈によって膨張して、ももいろクローバーのファンの日常に侵入した。しかし、それは「非日常が日常に入り込んだ」わけではなく「早見あかりの日常が自分の日常に入り込んだ」だけであった。アイドルがどのような日常を過ごしているかは妄想の範囲でしか語れない事柄だが、少なくともアイドルだからといって毎日が非日常であることは無いとは思っていた。例えば、撮影やレッスンなどは憧れの芸能界に入った際にかかった熱病に火照っているうちは非日常かもしれない。しかし、芸能界というひとつの社会の枠組みで生活するためには熱病から速やかに覚めて生きていく術を身につけねばならないことに、意識的にあるいは本能的に気づいたはずだ。ももいろクローバーの6人を見ていると、彼女たちにはその「気づき」があったことを思い知るのである。彼女たちには、傍目には非日常にも思える日常を過ごしてきたのである。
 だからといって、4/10に行われたももいろクローバー中野サンプラザのライブ、即ち早見あかりももいろクローバーとして活動する最後のライブを、彼女たちにとっては日常だから、という理由で行かなかったわけではなかった。単純にチケットが取れなかったのだ。だから、日常の中に非日常を見出そうとしたのは俺だけではなかったのだ、ということを、中野サンプラザの会場の外で考えていたのだ。時折聞こえる悲鳴のような歓声は非日常を見出した!という喜びのようでもあった。

 だらだらと日常とももいろクローバーを結びつけて書いているのは俺の悪い癖で、本論に入る。ライブ後、中野の中華料理屋で飲み会に参加することになっていたのだ。だから俺はチケットが無いにも関わらず中野サンプラザの会場の外にまで出かけてうだうだと考えていたのだった。酒は簡単に非日常の隙間を見せてくれるツールであり、そこに美味しい料理があるのならなお良し、と考えたからだ。いそいそと中華料理屋に出かけ、ひそかに乾杯の音頭を待ちわびていると、ひとりのちょっと地味な服装をした女の子が現れたのだった。飲み会の主催者のイトウさんによると、これからこの女の子が『chai maxx』を踊ります、というようなことを言うのである。へ?と思っているとイトウさんはラジカセの再生ボタンを押した。『chai maxx』のメロディーが流れ出したその瞬間、地味な服装をした女の子は弾けるように踊りだした。それはまるで空間の裂け目からいきなりももクロのメンバーが現れたかのようだった。ラジカセの音飛びや、中華料理屋の店員のあきれたような笑顔は、日常のものだったかもしれない。しかし、俺の目の前で踊る女の子はまぎれもない非日常だった。あの、ちょっと地味な女の子の名前が「すがゆい」だと知ったのはいつだっただろう。あの飲み会の最中だったか、あるいは自宅に帰ってからだったか。少なくとも、あの非日常の体験とともに「すがゆい」という名前が刻み込まれたのである。

 それから1ヶ月ほど俺はまた日常を過ごした。相変わらず放射性物質が飛散したりしなかったりしていることも原子力発電所がバリヤバい状態になっていることも全ては日常の中に組み込まれた。日常がより強く俺の体に貼り付いて歩きにくくなりつつあったのを、酒と美味しい料理とアイドルの歌の力で少しずつ剥がしとりながら、中野ロープウェイでもらったフライヤーを片手に新宿歌舞伎町をうろついていた。そこには「すがたゆい」という名前が書いてあった。このフライヤーをもらったとき、イトウさんはオープニングアクトに出るから、と言っていた。ラブホテル街をうろつきビルの5階にある会場に入ると、キャバレーのような空間があたりに広がっていた。こんなところであの地味だった女の子が踊るの?という戸惑いを感じていた。俺はこの会場に入る前に、ビールや缶チューハイをしこたま飲んでいた。俺はそうまでして非日常を手に入れたかった。金が無いのは頭が無いのと一緒や、という格言が頭をよぎる。非日常を手に入れたいがために俺はバランスを失いつつあった。酒を飲むにも美味しい料理を食べるのにもアイドルのライブに行くにも現実問題として金がかかるのである。金がなくなるということは日常を過ごせなくなるということでもあり、三十路に足を突っ込んだ人間としてはあまりにも情け無い姿ではあった。そう、三十路に足を突っ込んだ人間ならば日常を甘んじて受け入れて過ごすのが正しい姿なのだ。日常の中に非日常を求めてうろつきさまようなんていい大人の姿ではない、俺が子供のころにイメージしていた30歳はこんなに幼いものではなかったはずだ。自己批判が頭の中を渦巻く中、『ももいろパンチ』のような衣装を着たすがゆいちゃんが出てきた。そして踊った。この日のすがゆいちゃんは2曲踊った。1曲目はモーニング娘。の「Moonlight night」という曲だったそうだが、俺はアイドルファンを気取っているくせにモーニング娘。についての楽曲についての知識が薄く、ひょっとしてオリジナルの曲で歌ってるのかな?と思ったりもした。2曲目は、あの日の中華料理屋で見た『chai maxx』だった。すがゆいちゃんはももいろクローバーのしおりん似だとするのは早計で、俺にはキャナァーリ倶楽部のおがまなのような、陰を陽に転換するような力が強いのだという気持ちをおぼろげながらに遠くからでも感じていた。
 そう、俺はすがゆいちゃんの踊りをわりと遠くから見ていた。その気になればかぶりつきになって見ることだって可能だったかもしれないが、普段から目立たずに日常を過ごしたいと願っている俺にとっては難易度の高い行為だった。俺に出来たのは、歌にあわせて時折遠慮がちに手を振り上げることぐらいだった。しかし、すがゆいちゃんの踊りには遠慮はなかった。もし、彼女にとって踊ることが日常だったのなら、普段から目立たずに日常を過ごしたいと願うだろうか?そもそも、日常と非日常の境目というのは皆が共有しているものなんだろうか?そんなことを酔いから醒めつつある頭で考えている間に、すがゆいちゃんはステージから去っていった。俺は追いかけたのはすがゆいちゃんではなく、醒めつつある酔いであったので日本酒を買って飲んだ。そしてまた考えた。日常と非日常が表裏一体のものであるのなら、貼りついた日常を剥ぎ取ることなんて不可能なのではないかと。きっとどこかで日常と非日常が入れ替わるような瞬間を、皆は受け入れていたのではないかと。俺はそれがどの瞬間で行われていたのかを、いまだに分かっていないだけなのかと。酔った頭で考えたのだが、たとえしらふの頭でも俺の愚図な脳みそでは考えきれなかっただろう。そう考えたのはすがゆいちゃんと話をして写真やらバッジやらを買う数十分前の話である。日常というのは何だろう、と俺が考え始めたきっかけでもあったのである。今はただ、日常と非日常について考えるきっかけを与えてくれた、すがゆいちゃんに感謝するのみだ。俺は缶チューハイを飲みつつ、今日も、そして未来のいつかの瞬間にも日常から抜け出して非日常へと抜け出せないか、その術を求めてさまようのである。